母の悲しみ(1)
「おっ、校長…。」
声は聞こえなかったが、そんな感じだった。
* * *
退職して、しばらく過ぎた休みの日。
遊びに出かけた福島の帰りに、競馬場に寄った。
ジサマたちにとっては、大学時代を過ごした思い出の土地だ。
バサマと二人で競馬場なんて、40年ぶり?
すっかりきれいになった場内をうろうろしていて、ばったり会った。
ハタチ前後の男の子二人。
「おっ、校長…」
そんな顔をしたのは、間違いなくあの子だった。
* * *
その子が中3のときだった。
前の晩、家に帰っていない、と親から連絡があった。
母一人、子一人。
すぐに先生方で情報を集めた。
* * *
何を考えているか分からないところがある子どもだった。
真剣になっている姿を見たことがない。
怒られていても、薄笑いを浮かべることがあったらしい。
やる気のなさは、満たされない何かの影響か…。
* * *
隣町の男子生徒と遊んだことがあると聞いた。
…とにかく行ってみよう。
何もしないよりはいい。
生徒指導担当と二人で車に乗った。
* * *
隣町。
ジサマが前に勤めたことのある町だ。
かといって、探すあてもない。
ひとまわり、ぶらっと回った。
この町にいるという情報があったわけでもないのだから、無駄な時間だ。
見つかるはずもない。
* * *
帰るか…。
そう思ったときに、
「いました! 校長先生、いました!」
助手席で生徒指導担当が叫んだ。
少し離れたところを自転車で横断したという。
急いで先回りして自転車の横に車を止めた。
二人乗りだった。
* * *
「おっ、先生…」
さほど驚いた感じではない。
「どうした? 心配したぞ。」
担当者がやさしく言った。
「帰っぺな… いいが?」
ジサマが声をかけた。
「うん…」
その子は、大人しく車に乗った。
* * *
競馬場で思わず「おっ、校長…」と言った顔は、
まさしくあのときの顔だ。
気恥ずかしげに、うつむき加減で…
お母さんがジサマの家で涙を流したのは次の日だった。